同和行政の早期終結と市役所労働者の責務 第2回市役所部落問題研究集会中山寺事件20周年にあたって
同和行政の早期終結と市役所労働者の責務
第2回市役所部落問題研究集会

中山寺事件20周年にあたって

1994.11.1
大阪市役所労働組合


1.中山寺事件から20年、あの事件は何だったのか

 いまから20年前の74年9月28日、自主的な学習研究組織である大阪市役所部落問題研究会を中心に、第2回大阪市役所部落問題研究集会(実行委員長永井守彦氏=現市労組委員長)を計画したところ、大阪市職は、「この集会は『解同』との連携、協力を決めた市職方針に反対する分派・分裂活動であり反組織的行為である」と一方的に断定しました。そして会場予定地の中山寺(宝塚)に300人以上の組合員を動員して集会を開催不能にしたあげく、その後、永井実行委員長に対して組合員権停止1カ月の処分を強行しました。
 この事件の1年前には、同和事業指導員として浪速地域で子ども会の指導に当たっていた橋本浙子さんが、矢田事件の「木下文書」を「差別」とは思えないと述べたことにより、市当局の手で厳冬の時期を含む8カ月間、ストーブも与えられず、研修名目で中央公会堂の地下などに「幽閉」されていました。彼女の切実な「救済」の申し立てに対し、市職は職種も異なり、しかも労働組合のない消防局への配転に同意するという態度でした。そればかりか、彼女を支援し、「訴え」のビラを配布した組合員を徹底的に調べあげ、73年の所属間人事交流で、ビラを配布した組合員100名近くが本人の残留希望を無視した市当局によって不当配転が強行されました。それは職員に対して大阪市の同和行政批判を「禁ずる」通達をだした市当局と市職との「見事」な労使癒着の産物でした。矢田事件を契機に部落排外主義、暴力、利権あさりによって、部落解放運動を変質させてきた解放同盟の間違った方針を市当局や大阪市職が積極的に受け入れ、むしろ職員の労務管理や労働組合の支配安定に活用してきた労使癒着の職員支配構造が浮かびあがってきます。それはまさに解放同盟を利用した「政治路線、つまり矢田事件の木下文書と『解同』朝田派支持を踏み絵とし、第1は、大阪市役所に働く5万3千の労働者支配、第2は、自覚的民主勢力封じ込め政策、第3は、同和施策に恩恵主義的色彩を与え解放運動を変質化させる」(斉藤浩弁護士『橋本訴訟で問われているもの』)という明らかな特徴をもっていました。
 部落問題に関して、労働組合が組合員の思想信条や集会の自由を抑圧するという「方針」と市当局の労務管理がむすびついた結果、職員全体への言論統制が強められ、やがては、不正・不当なことでも「目をつぶり、かばいあう」体質を生み出し、あの公金詐取事件にまでつながったのではないでしょうか。ちなみに、橋本事件で人事課長としてかかわったのが、公金詐取事件の張本人平野誠治元総務局長でした。
 その後、永井処分問題は裁判闘争として最高裁まで9年をかけて争われ、原告永井守彦氏の完全勝利に終わりました。判決では、「市職が勧告または説得の範囲を超えて、統制処分を行った」ことについて、「統制権の限界を超え、原告の団結権を侵害する違法な行為」としています。
 つまり、労働者は労働組合によって思想信条まで統制されるものではない、一人ひとりに「団結権=自己決定」の権利があるということを認めたものです。「自己決定」の理念は、その後、「ナショナルセンターの選択の自由」「労働組合選択の自由」として発揮され、大阪市役所労働組合結成への団結権行使の基本理念となりました。
 中山寺事件から20年、この間、省みることもなく不公正・乱脈な同和行政が続けられてきました。今日、行政の主体性の欠如と解放同盟の無法な確認・糾弾行為などの誤った運動が、同和問題解決の新しい障害になっていることは、84年にだされた国の地域改善対策協議会の「意見具申」も認めていますが、これらがとくに大阪市における同和事業終結をはばむ大きな障害となっていることを直視しなければなりません。私たちの職場では、大阪市における同和対策事業の進捗状況や同和地区の実態はあまり伝えられずに、部落差別はまだまだ厳しいとしたうえで、人権問題を差別=同和問題に矮小化した研修などがおこなわれています。私たち大阪市役所労働組合と大阪市役所部落問題研究会は、20数年間の歴史的経過も振り返りつつ、特別法の期限内に同和対策事業を名実ともに終わらせるため「同和行政の早期終結と市役所労働者の責務」についてその要求と提言をまとめました。

 2.部落問題解決の到達段階...部落差別は基本的に解消されつつある

 「同和対策事業特別措置法」が69年に制定されて以来、約12兆円近い事業費が国及び自治体(大阪市では1兆円)で投下され、同和対策事業の進展や地区内外住民の努力などにより、今日では、部落問題は解決にむけて大きく前進してきています。
 同和地区の生活実態は著しく改善され、周辺地域との間に見られた格差も急速に縮小し、部落問題をめぐる国民の意識も大きく変化してきており、今日では部落問題を最終的に解決する局面をむかえています。

 (1) 特別対策ではなく、一般行政水準の引き上げで
 どんな差別もなくさなければなりませんが、部落差別は、民族差別や女性差別のような人種や性による区別を前提とした差別と異なり「区別なき差別」です。その社会的特質を考えれば、「部落の存続」そのものを打ち切ることによって解消する性格のものです。
 人々が部落問題を気にしたり、問題にしたりする要因は、地区と地区外との市民の間に、生活環境や労働、教育などで、周辺地域との格差が存在していることです。同和地区の方が相対的に低い場合と、逆差別的に同和地区の方が相対的に高い場合です。
 いずれも、そうした「格差」を解消することが、地区と地区外の垣根を小さくすることにつながります。この格差の解消はここ20年間に急速に進み、部落問題解決の条件の1つとして高く評価されています。
 大阪府の「同和地区生活実態調査」(91年)の結果とその他の統計を加えてつくった全解連大阪府連の報告はこの事実を裏付けています。A表が示しているように、「1人あたりの平均使用畳数」においては「同和地区」が大阪府平均を上回っており、同和地区住民は「狭い所に住んでいる」といったイメージは事実によってうちやぶられています。実態にイメージが合致してくるのは時間の問題です。

 B表が示しているように、就労においても格差の解消が進んできており、まだ少しの「傷あと」を認めることができるもののほとんど格差は解消されてきています。「同和地区住民は主要な生産関係から排除され不安定な就労状態にある」(解放同盟)という状態は克服されたといえます。
 安定就労化が進めば、安定した生活が営まれていくわけであって、それが地区住民の生活水準の向上に確実につながっていく道です。
 「健康状況」においても、C表が示しているように、ほとんど変わらないところまできているといえます。「健康度」は住宅、労働、環境などのいわば、総合的な結果であり、この点での格差の解消がみられるということは、全体的・総合的に格差が解消されてきていることを示しています。
 D表では、社会的交流の進み具合をおしはかる1つの指標として、部落内外の結婚率が示されています。近年になるほど「同和地区内外の通婚」が急増してきているだけでなく、結婚にともなう被差別体験も激減してきていることがわかります。
 部落差別にかかわる人権侵犯件数は、88年度は172件で全体の1.1%でしたが、93年10月の法務省の見解によると、「平成4年(92年)度の取扱い人権侵犯事件15,000件の内、部落差別にかかわる人権侵犯は29件」というように、全体の0.2%へと大幅に減少してきています。解放同盟大阪府連の資料でみても、部落差別にかかわる「差別事件」発生件数は、83年度から91年度までの8年間(88年度は資料なし)に合わせて2,562件となっています。そのうち「落書き」が71.9%、「投書」と「電話」を合わせると83.3%を占めており、「結婚差別」や「就職差別」のように部落住民の権利侵害に直接かかわる事件は、合わせて0.4%であってきわめて少数となっています。いずれにせよ、今日ではすでに「落書きしかできなくなっているところにきている」(元部落解放研究所理事長・原田伴彦氏)のであって、行為者も特定できず、その人数も動機も明らかでない「落書き」の件数だけでは、部落差別が「深刻化」していることの客観的な証拠になりえません。
 以上のように同和地区の生活実態は著しく改善され、周辺地域との間にみられた格差も急速に縮小し、部落問題をめぐる国民の意識も大きく変化してきています。もとより、問題がまったくなくなったわけではありません。なお少なからぬ面で格差や問題が残されています。
 しかし、それらは部落差別の結果というよりは、むしろ同和地区内外に共通した要因にもとづくものとなっており、その是正は、同和地区だけを対象にした特別対策ではなく、一般行政水準の引上げをはかることで解決するものです。

 (2) 「同和地区」という行政的な垣根をなくすなど部落差別の手がかりを解消する
 「部落」かどうかを区別することをやめさせるために、現行の同和関係法の期限切れとともに新たな同和関係法をいっさいつくらないことです。同時に「地区指定」を解除することです。「地区指定」をしながら、どこそこは「同和地区」ではないというわけにはいきません。「人事極秘・部落地名総鑑」、「全国特殊部落リスト」、「大阪府下同和地区現況」、「戸籍や住民票の差別利用」などは問題ですが、今日では法律によって「地区指定」していることの方がもっと重要な手がかりを与えています。この「地区指定」が何らかのルートで明らかにされるなら、これをもとにして「資料」がつくられていくでしょう。さらに問題なのは、同和対策事業で個人対策をすすめるためには属地・属人によって、「同和関係者」を特定することです。場合によっては公然と「部落民宣言」までさせるわけですから、このことは「調査」をしたがっている勢力、個人にとって大変便利な情報提供のシステムでもあるといえます。
 次に、「同和地区」や「同和関係者」であることを示すようなものはいっさいなくすことです。歴史的研究において必要な場合を除いて今日の同和地区を示すようなものを提供することはやめるべきです。
 「解放会館」などもどこが地区であるかを調べるうえではきわめて有力な手がかりを与えています。「人事極秘・部落地名総鑑」はいけないが、なぜ「解放会館」が手がかりならよいといえるのか、首尾一貫しないで混乱していることの弊害は大きいのです。
 「部落民宣言」なども手がかりをなくすという観点からもするべきでないし、させるべきではありません。「自己申告」や特定の運動団体が、身元を暴くのは非常に問題です。解放同盟高知市協は、父親が「同和地区出身」であると女性教師の身元を暴きましたが、これは部落差別行為であることは広く知られています。つい最近まで存在した「同和地区出身者」を明らかにして、特別のワクで高校入試に「合格させる」制度や、市職員への「優先採用」制度なども「身元」を暴露する「反動的」な試みです。これは、逆差別そのものであり差別の解消につながりません。

(3) 自己矛盾に満ちた解放同盟の部落問題解決の「あり方」論を克服する
 部落問題の解決とは、旧身分のいかんをとわず、人間としての平等、同権を確立し、社会生活においても閉鎖的な障害を打破して自由な市民的交流と融合を遂げることです。つまり、「旧身分が、結婚・就職・交際などで問題にしたり、されたりすることのない状態をつくること」です。
 一方、部落解放研究所長の友永健三氏は「部落の解放された姿」として「部落出身であることを明らかにしても、部落が存続していたとしても、何ら差別されることない状態」(『水平社会をめざして』解放出版社92年)だと述べています。
 この見解が問題なのは、「部落出身であることを明らかに」すること自体が、自ら封建的身分の残滓にこだわりをもっていることであり、そのこと自体が克服すべきことです。
 封建社会の身分的遺物としての「身分」は今日存在しません。日本国憲法第14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定しているように、封建社会とは決定的に違い「身分」は、現在の法制上は否定されています。
 自分の出身が「殿さま」だったことにこだわる元首相やその周辺が最近まで存在したことは記憶に新しいですが、そのような考え方こそ封建的身分差別の残滓にとらわれた反動的なものです。また皇太子妃選びに4代前まで血筋を遡って調べたというのも同様の考え方です。今日、「自分の家は武士だった」とか「自分の家は百姓だった」などを自ら名乗ったり、そのことにもとづく差別的言動はもう社会的には受け入れられない状態になっています。このような状況をつくりだすことが部落差別をなくすということです。
 「部落出身であることを明らかにしても」それが「証明不能」であり、また、「証明」できるようなものを残しておくこと自体が問題です。「部落出身であることを明らかに」したいという人はどういう「証拠」にもとづいて証明するつもりでしょうか。
 一方では「部落地名総鑑」をはじめとする「部落出身」を明らかにしようとする動きや「手がかり」の存在に反対しながら、他方、自分自身で「部落出身」を明らかにすることは自己矛盾です。教育実践における「部落民宣言」や「社会的立場」を自覚させる教育のあり方なども同様の矛盾をもつものであって、「差別」そのものなのです。
 「部落地名総鑑」は差別である、「興信所の調査」も差別である、といいながら、「自己申告」はよいなどということがいえるのでしょうか。「自分は部落民だ」と名乗りながら「ああそうですか、あなたは部落民ですか」と相手がうなずくのは差別である、などという身勝手な理屈は通用するはずがありません。

   3.「同和」などの名を冠した特別対策の終結を

(1) 部落問題解決に逆行し、「同和地区」を半永久的に固定化する「宣言・条例」制定に反対を
 最後の同和立法とされている「地域改善財特法」(「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」)の最終期限(97年3月)まであと2年余となった今日、「同和問題もまた、すべての社会事象がそうであるように、人間社会の歴史的発展の一定の段階において発生し、成長し、消滅する歴史的現象」(同和対策審議会答申、65年8月)にほかなりません。そして「本問題の最終的な解決は、憲法に定める基本的人権尊重の理念を実現することであり、これは、必ず達成できる課題である」(地域改善対策協議会『意見具申』84年6月)ことを文字どおり実現するために、何をなすべきかが鋭く問われています。
 生活環境や生活実態にみられた格差は著しく是正され、部落問題についての誤った認識や偏見も急速に薄らぎ弱められてきています。なお多少の格差や課題が見られるとはいっても、部分的・限定的なものであり、部落差別と短絡的に結びつけ、部落差別の結果であるとはいえなくなっています。このような状況のもとで、同和地区住民を半永久的に法的に固定化し、同和施策を特別施策として半ば永久的に続行し、部落差別を固定化する法制度の制定は、部落問題の解決に逆行するものであり、その必要性は全くありません。今日求められているのは、特別対策を終結させ、「同和」と名のつく垣根をとりはらって、地域社会で自由な社会的交流を進展させ、よりいっそう連帯・融合を促進していくことです。市当局は、解放同盟の要求と運動に追随する立場を改め、「条例・宣言」の制定を行わない立場を明確にうちだすべきです。

(2) 「差別落書き」は、消去して原状回復が市民道徳
 大阪市の施設に「差別落書き」が発見されるとその施設管理者の責任が問われ、大阪市は、これまでのとりくみを反省し、見直し、さらなる啓発・研修にとりくむこととなります。社会常識で考えれば、落書きを書かれた施設管理者は、もともと被害者側なのであって、施設管理者には全く責任がないはずです。しかし実際は大阪市の責任が問題となっています。これは、他の民間施設の「差別落書き」が問題になる場合にも共通するパターンです。
 大阪市では、「差別落書きマニュアル」なるものを作成して庁内外にその徹底をはかってきました。その骨子は「差別的な落書きを発見したときは」、「@保存→A連絡→B記録→C処理・報告→D管理・監視→E研修」という仰々しいものです。もちろん公共施設への落書きという公共道徳に反する行為や、「差別落書き」は許されるものではありません。同時にその落書きをもって市職員があたかも「差別者」と同罪とする「運動」のあり方に問題があります。
 解放同盟役員や彼らに「連帯」する者が、「解放運動の低迷」への刺激剤として、差別落書きや投書をするといった兵庫県篠山町(解放同盟支部長83年) ・箕面市(自治労役員90年) ・高知市(主査職員94年) などの例もあり、こんな「マニュアル」によって差別事件化され、「確認、糾弾」の対象にされたのではたまりません。
 さらにいえば、市当局の努力によって解決できる問題と守備範囲をこえる問題があります。落書きは自治体の責任外の問題であって、「差別落書き」によって、「心を痛める人がいるかもしれない」「人権侵害につながるおそれがある」などというファジイ ーな理由で、もともと責任外の問題にあえて責任を負うとすることは、逆に無責任のそしりをまぬがれません。したがって、行為者不明の落書きは消去など原状回復につとめるしかないのです。落書きの件数を数えあげて、「差別事件が後を絶たない」「深刻化、陰湿化している」ことの証左などとする論議もありますが、すでに明らかにしたように「落書ぐらいしかできなくなっているところに来ている。…いままでは露骨な表現をしていたが、今は、落書ぐらいしかできなくなっている」(元部落解放研究所理事長・原田伴彦氏)と見るのが、解消過程にある部落差別についてのまともな歴史認識です。

(3) 「同和」を特別視する職員同和(人権)研修の抜本的改革を
 これまでの大阪市職員同和研修では、「足を踏まれた痛さは踏まれた者にしか分からない」「部落民にとって部落にとって不利益な問題は一切差別」などの「差別意識論」がおしつけられ、「差別はしてはいけない」などの「道徳教育」的研修や、29年前の同対審答申の基本認識を踏襲した、一面的な「部落の歴史」講義などが行われてきました。しかも、大阪市内の同和地区の実態や同和行政の実態にはほとんど触れない一般的、抽象的な研修に終始しています。研修で使用される啓発映画も、部落=「善・正義」、部落外=「悪・不条理・差別者」にパターン化され、部落差別の「深刻化・陰湿化」のみを強調するものばかりでした。研修の運営も質疑応答、相互討論ぬきの一方通行で、半ば強制的な参加対応など、職員同和研修には多くの職場から不満と批判の声があがっています。
 また、本来、地方自治体職員・行政担当者として、熟知しておくべき政府方針には、「地域改善対策協議会:意見具申」(84年6月)、「地対協:基本問題検討部会報告書」(86年8月)、「総務庁:地域改善対策啓発推進指針」(87年3月)や関連する総務庁通達などがあります。こうした政府方針は、行政の主体性の確立と行政運営の適正化、同和関係者の自立、向上の精神の涵養の重視、えせ同和行為の排除、同和問題についての自由な意見交換のできる環境づくり、民間運動団体の行き過ぎた言動(確認・糾弾は違法行為、私的制裁)、差別の法規制の問題点などを明確に指摘しています。しかし大阪市は、熟知しておくべき政府方針であっても、運動体の圧力に屈して一般職員の目にふれさせないなど行政としても異常な状態が続いていることは大きな問題です。
 「同和」を「人権」へと間口を広げてみても、現に庁内に存在する男女差別や昇任昇格における差別などには口をつぐむ「人権認識」であり、「人権→差別→部落差別」へと流し込む人権問題の矮小化にほかなりません。このように大阪市の職員同和研修は、「同和」を特別視・別格化する考えがつくられ、心のなかに新たな垣根さえつくりだしかねません。自治労連の「自治体労働者権利宣言」素案では「第9条・自治体労働者は自由で自主的な研究を行う権利、ならびにそのため必要な研修をうける権利を有する。A自治体当局のおこなう研修は、憲法と地方自治法の民主的原則にもとづき、自治体労働者がその職務を遂行するための能力向上、人間的成長を保障するものでなければならない。」とうたっています。自治体職員として憲法に明記されている基本的人権の理念を共有して職務にあたるための「人権研修」こそ求められています。
 いわゆる「研修自治」を含め、職員の自主的自発的学習意欲にささえられた民主的研修への抜本的検討が求められています。また、大阪市においては、特定の運動体すなわち解放同盟が主体となって開催されている「研修講座・研究集会」等に対して、参加費・交通費(旅費)公費負担、公務出張扱い、参加者割り当て指名という参加対応が長年にわたっておこなわれています。こうした対応はただちにあらため、職員の自主的自発的参加を原則とすべきです。

(4) 民主主義・人権意識一般を定着させる市民啓発を
 全国各地の意識調査の結果を見ると、たとえば国民が「早急に解決すべき人権問題」として部落問題だけでなく障害者問題、老人問題、学歴社会問題なども重視されています。「同和問題だけを特別にとりあげるのではなく、民主教育や人権啓発を全体としてすすめていくべきである」という選択肢が設定されている場合には、その比率が6〜7割をこえており、「何よりもまず同和問題をとりあげ、同和教育や同和啓発を重点的に進めていくべきである」という人は5%以下にすぎません。
 91年3月にだされた「大阪市民の人権問題に関する意識調査報告書」(調査は90年9月実施)では、熱心にすすめてきた「同和啓発」を中心とする人権啓発について、「知っているし、行事などに参加したことがある」としたものは、2.7%、「知っているが、行事などに参加したことがない」27.3%、「知らない」64.5%とあわせれば91.7%が参加していません。一方、「同和問題」以外の「人権問題」を問うという不十分な設問ではありますが、「人権問題について勉強したいこと」(複数回答)という設問に「回答なし」が、8.8%と少なく、「学校でのいじめや体罰」35.2%、「障害者差別」24.7%、「女性差別」19.1%、「在日外国人差別」17.0%、「母子家庭差別」16.8%、「アパルトヘイトなど民族・人種差別」13.6%など関心が極めて高いことを示しています。
 また、「同和啓発」の必要性についての設問はありませんが、「同和啓発」と関係の深い「同和教育の必要性」について、「わからない」「回答なし」があわせて41.9%に対し「ぜひともやるべきだ」が意外に少なく19.1%、「やるべきだが、進め方に問題」8.9%、「必要とは思わない」9.4%、「むしろやらない方がいい」20.7%となっており、現在の「同和教育」に疑問をもっている者は、39.0%に達しています。明らかに市民は、部落問題だけを「特殊化・別格化」するような「同和教育」や「同和啓発」には批判的であることを示しており、その是正が求められています。
 啓発とは、「手引きする、自力で悟る手口を与える」(不憤不啓ー『論語』より)こと、すなわち、新しい知識や情報を与えることによって、学ぶ者自身に学習意欲を起こさせるというのがその意義・目的なのです。「市民啓発」は、日常の生活慣習や考え方のなかに残っている前近代的または封建的意識をとりのぞき、憲法・民主主義や人権意識一般を定着させることを中心に、部落問題もとりあげていくものにしていくことが必要です。「人権啓発推進協議会」などを通じて実施されている「市民啓発」が、行政の側からの一方通行のかたちで市民への特定イデオロギーや見解の普及・浸透の場、また、市民からの正当な批判をおさえる場として機能するなど、「啓発」の意義・目的に照らして逸脱していないかどうか検証するべきです。「市民啓発」にあたっては、市民の思想、信条、良心の自由を侵害をしてはならず、行政の中立性と主体性を厳格にまもるようにしなければなりません。特定団体の不当な支配介入を排除し、あわせて市民の意思に反した参加の強制はいっさいやめることです。

(5) 「解放教育」「解放保育」をやめ、どの子も伸びる教育・保育を
 この春、北津守小学校の入学式のとき、新一年生に「差別と人権について勉強します」とのよびかけに驚いたお母さんは、早速、教頭にただしたところ「差別と人権については、意味がわからなくても教えていく」と教育者らしからぬ発言をし、父母のひんしゅくをかっています。
 今年7月、「部落解放西成地区教育改革推進会議」(学校・教育を守る会などで組織)が在学児童の全保護者対象に「教育についてのアンケート」を実施し、このほど結果が発表されました。
 「学校や先生に一番のぞむことは」に対して、「学力をつけてほしい」、「子どもをしっかりみてほしい」が小学校62%、中学校で65.6%ともっとも高く、「人権、同和教育をもっとしっかりしてほしい」は小学校0.4%、中学校で1%ときわめてわずかになっています。(国民アピール署名推進市連絡会ニュース)。逆にいえば同和教育推進校の99%の父母は「解放教育」に疑問をもっていることを示しています。
 また、保育についても子どもの豊かな発達をめざすものであって「解放の戦士」を育てるものではありません。4〜5年前まで行われていた運動会で解放歌を歌わせたり、垂れ幕を下げたりすることは、さすがに姿を消してきているものの、大阪市の同和保育所では、依然として「狭山デー」が同和保育の中に位置づけられ、保母も「学習」をさせられています。また、西成地区や浪速地区では、いまだに7ヵ所、5ヵ所合同の運動会が行われており、子どもたちや保母の負担は大きいものになっています。全解連所属父母の子どもには、スモック支給の差別的なとりあつかいをする一方、ある地区では平日の2日間地区内の全保育所を休みにして、保育所と解放会館の職員参加(ただし、臨時的任用保母は2日間自宅研修)でバスを連ねて一泊研修会がされていますが、研修そのものは1日目の午後だけで事実上の慰安会になっており、職員からは「公費の無駄遣いだ」「不必要」という声もあがっています。
 こうした実態からも「同和教育基本方針」(66年)および「同和保育基本方針」(83年)を廃止し、教育・保育の分野からも「同和」という垣根を取り除く必要があります。また「同和教育推進校」の指定を廃止し、教員や保母の同和加配をあらため、解放教育副読本「にんげん」の配付もやめるなど憲法と教育基本法にもとづく教育を推進すべきです。

 4.市民とともに同和行政の垣根をとりのぞく市政への転換を

 全解連(全国部落解放運動連合会)は、「21世紀をめざす部落解放の基本方向」(87年3月)の見解で、「部落問題の解決、すなわち国民融合とは、@部落が生活環境や労働、教育などで周辺地域との格差が是正されること。A部落問題に対する非科学的認識や偏見にもとづく言動がその地域社会で受け入れられない状況がつくりだされること。B部落差別にかかわって、部落住民の生活態度・習慣にみられる歴史的後進性が克服されること。C地域社会で自由な社会的交流が進展し、連帯・融合が実現すること。」の4点をあげています。すでに明らかにしたように、いま、部落問題は、同和行政の終結、市職員や市民のなかでの自由な意見交換の促進、民主主義の前進によって解決がはかれる段階にいたっています。このことに確信をもち、その障害をとりはらう庁内外の世論と運動をきずくことがたいせつです。10月18日、同和行政の終結・完了にむけ「国民アピール署名推進大阪市連絡会」が結成されました。この「国民アピール署名」運動は部落問題解決の障害をとりはらい、真の解決をはかるための国民合意をすすめる歴史的意義をもつ運動です。自治体労働組合と自治体労働者の位置と役割にてらして、大阪市役所労働組合と大阪市役所部落問題研究会はこの運動に積極的に参加するとともに、大阪市役所の全職員に「同和行政の早期終結」を要求する運動への共同をよびかけるものです。

以 上



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